追悼文3 | 故 櫻井錠二先生 | 東京帝国大学 名誉教授 片山正夫 <1877-1961.> |
「理学部会誌」 1932年12月 |
安政五年八月金沢に生まれ、昭和十四年一月八十二才を以って東京にて薨去せられるまでの故櫻井錠二先生の生涯は実に我邦自然科学が其の黎明より今日の発展に至る期間に亙るものであって、又其の内容の発達と品格の向上とは先生の努力に基づくものが多かったのである。先生は晩年に於いては、帝国学士院長として、日本学術振興会理事長として、枢密顧問官として、其の他種々の機関に関係せられて、我邦学界の一般的主宰者の如き役目を勤められたのであるが、其の六十歳頃に至る迄は実に我理学部がその努力の対象であったのである。櫻井錠二先生は明治三年、十三歳にして金沢藩校致遠館に入学せられ、次いで当時七尾に居りし英人オズボーンOsbonの許に学ぶ事を命ぜられ、英語の教授を受けられた。能登の七尾は裏日本の良港の一つとして、夙<ツト>に英国の着目するところであったのである。櫻井先生が英語に於いて殆ど他の追随を許さざる力量を以って居られたのは周知の事である。其の後に長く英国に留学せられたに基づく事は勿論であるが、淵源<エンゲン>は遠く七尾に在ったと思われる。先生は常に幼時に於ける母君の三子<三人の遺児>を教育せし一方ならざる努力を之より受けられた薫陶とを追懐し感謝して居られた。先生の長兄は明治時代の第五高等学校長として有名なりし櫻井房記先生であって、次兄は海軍造船界の長老として尚健在なる櫻井省三先生である。さて、大学南校はその後開成学校と改名せられ、其の本科二年を了えられし時、錠二先生は五ヵ年間化学研究の為英国に留学を命ぜられた。時に明治九年であって先生は十九歳であった。かくして先生は開成学校を卒業せずして外遊せられたので、理学士の称号は持って居られなかった。当時開成学校の化学教師は英人エトキンソン氏<原文のまま> Atkinsonであって、此人は先生帰朝のとき英国に帰った。質実なる好紳士であって櫻井先生は中年後も渡英の旅に毎に親しく交際されて居られた。
ロンドンに於いては櫻井先生はユニヴァーシティカレッジ University collegeに入られた。その化学教授はは有名なるウイリアムソン Williamson博士であって、当時エーテル生成の機構の研究等を以って著名であって、分子量の概念を確立するに多大の貢献があった。物理はフォスター Foster 博士やロッヂ Lodge 博士に就かれた。さて ウイリアムソン Williamson 博士は文久元治の頃、後の伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の五人が英国に学びし時此等の世話をし、又後に我大学に教師を聘<ヘイ>=招聘>せしとき、ダイヴァース Divers、エーアトン Ayrton、ユゥイング Ewing、ミルン Milne 、ペリー Perry 等の真に力量ある少壮学者を周旋したのも同博士であって、維新前後の日本の為には最も親切なる助力をしたのである。此等の事蹟に就いては櫻井先生が昭和十二年渡英せられユニヴァーシティカレッジ University college の名誉学友 Honorary Fellow となり、外国人として最初のものとして此称号を受けられたとき、其の祝賀晩餐会に於ける答辞中に委しく述べられてある。此の演説は頗る<スコブ>美事<見事>なる出来ばえであって、先生帰朝後、服部報公会の求めにより再び之を口演さられ、録音として保存せられて居る。 櫻井先生がウイリアムソン Williamson 博士に就いて学ばれし事は、独り先生のみならず我邦化学の為に実に幸な事であった。而して此の少壮留学生は奮励努力直に頭角を現し、第一学年には同学百余名中の首位を占めて金牌を受け、第二学年には合併競争試験に於いて第一位となり、其後二ヵ年を通じて奨学資金百磅<ポンド>を授けられ、此の間研究論文二編を発表し大いに学名を揚げた。当時日本なる国が海外に於いて如何なる程度の認識を受けて居ったかという事を追懐すれば、少壮気鋭の留学生の此の如き業績が、我邦の信用に対し如何に貢献したかを想像し得るのである。当時ロンドンには菊池大麓、穂積陳重等の俊秀も留学中であって、何れも劣らぬ名声を博したのであった。菊池、穂積の両先生は共に一生を通じて櫻井先生と親交あり、又其の兄事するところでであった。英京<英国の首都=ロンドン>に於ける此の華々しき学修を了えて明治十四年九月二十四歳の秋帰朝せられ、東京大学の講師となり、翌十五年教授となられた。明治二十一年は我邦に於いて初めて博士号の制定せられた年で、先生は其の六月理学博士の学位を受けられた。この間に東京大学が帝国大学となり、明治三十年には東京帝国大学となったが、櫻井先生は各時代を通じて教育と研究とに尽瘁せられ、又明治四十年より大正八年迄十三年間理学部長の職にあり、一時総長事務取扱をも勤められた。帝国大学教授の定年制に就いては先生は積極的に出張せられた一人であって、大正八年四月六十二才を以って退職せられ、次いで名誉教授となられた。実に三十八年間我大学に勤務せられ、学術及経理の両方面に亙りて力を致された訳である。 帝国学士院との関係は明治三十一年当時東京学士院と呼ばれし頃、其の会員を命ぜられたるを初めとし、大正二年より十三年間幹事となられ、大正十四年より薨去に至る迄十四年間帝国学士院長の職に居られた。実に四十一年間学士院関係せられ、俗にいう其の主ともいうべく、事細大に関わらず先生の手を煩わしたのである。帝国学士院の欧文報告の発行も仕事の一つであり、又現在の帝国学士院の建物に就いても不足がちの予算を以って種々工夫を凝らされたのであった。其の総会場の設計は大いに英国風を加味せられ、一種の品格を備えたものが出来て居る。 櫻井先生の化学者としての経験は英京留学中の少壮時代より初まる。当時はメチレン基が水銀沃素等と化合せる興味ある物質を研究せられ、ロンドン化学会誌に発表せられ、帰朝後も此種の新化合物につき実験せられた。此如く初めて有機化学を研究せられたが、先生の自伝中にも記されたる如く自然の傾向は寧ろ論理的物理的なる探究を好まれた。十九世紀の末にファントッフ Van’t Hoff 、オストワルド Ostwald 等の名家輩出して所謂物理化学なる部門が急速に発達し、従来単に記述的学問の如く考えられた科学が、総合的に取扱得る端緒を開いた。櫻井先生は何人よりも速く此学界の動きに着目し、自らの研究方法に又後述の教育に此方面を取入れられた。先生の物理化学的研究の中最も世に知れて居るのは、溶液の沸点上昇を測りて溶質の分子量を決定する方法の改良である。本来、溶液については直接液相の温度を測る必要があり、而も其れは必然的に過熱状態にあるので、測定に際し種々の困難がある。先生は溶媒の蒸気を溶液に吹込む事により過熱の大部分を除去し、頗る簡単なる装置を以って比較的精密なる結果を得るに成功せられた。其後此方針により種々の装置の改良が発表せられ、溶質分子量の此種の測定法は大に世の注意を惹いたのであった。有機化合物の物理化学的構造論は又先生の注目せられた事項の一つであって、分子量の問題など取扱はれ、特に内塩類例えばグリココル等の構造につき論ぜられた。グリココルは多くの点に於いて通常の塩類に類せる事を指摘せられたのは、後に至り発達した分子内分極、或いは分子内解離の考えの先駆なりとも見放し得る。 櫻井先生は又化学教育に関し、其の何れの階級にも物理化学を導入するに力め<ツトメ>られた。我邦が中等教育に至る迄此方面を受け入れる事寧ろ先進諸国よりも早い位になったのは、先生が教授要目等につき自ら注意せられ、又門弟の多くが此部門に力を尽くした結果である。故池田菊苗博士<昭和11年5月没>と大幸勇吉博士とは、先生の門人中先ず物理化学を専攻発展せしめられた人であって、何れも先生の紹介により、先ずオストワルド Ostwald 博士の許に留学せられたのであった。而して此両博士の帰朝後の努力により、我邦の物理化学は益々発達したのである。原子量の基準として水素を採るべきか、酸素を採るべきかは二十世紀の初頭に於いて喧しき問題であった。先生は初めより酸素標準の強い賛成者であって、明治三十七年には池田博士と連名にて、国際委員の資格を以って其の意見を開陳せられた。今日何人も酸素標準を用いて居るが、古い者には時勢の変遷がこうご回顧せらるるのである。此頃日露戦争が盛となり、先生には旅順要塞に於ける白兵戦<化学兵器を使わない肉薄戦>の催涙弾としてアクロレインを用いる事を計画せられたが、之を実用に供するに至らずして幸に旅順口は陥落したのであった。之は実に化学兵器の最初の企てといってよいのでは、東京に於ける汎太平洋会議の翌年、昭和二年に先生がソヴィエット学士院の名誉会員に推選せられたのは、之も理由の一つであったと聞く。日本化学会に就いては、其創立せられ東京化学会と称せし初めより、櫻井先生に負うところ頗る多く数期間会長にもなられた。化合物の学名を定め、又適当なる学語を制定し、化学語彙<ゴイ>を発行するに当たりては、中々議論もあって、大いに先生の力を要したのであった。上記の原子量基準問題も我化学会を代表して参加せられたのである。 明治四十年は櫻井先生の大学在職二十五年に相当するので、其の祝賀の為門弟、知人の企てにより東京化学会に櫻井奨学資金を寄附し、年々櫻井賞牌を出す事となり、又大学紀要の別冊として記念論文集を発行した。現在理学部化学教室の図書室に掲げてある大写真は此時の櫻井先生の肖像である。東京帝国大学を退けられて後の櫻井先生は、学界の全般に関して学術の研究の奨励補助に力を尽くされ、最早化学界のみが私のすべき先生ではなかった。対内的にも、対外的にも櫻井先生の此方面の貢献は実に著大なるものがあった。 大正七年ロンドン及パリに於いて国際学術研究会議が開かれ、先生は帝国学士院を代表して参加せられ、其の結果をして日本の学術研究会議を創設する事となり、大正九年に至り政府の公式機関として成立するに至った。之に就いては櫻井先生は終始尽力せられ、創立後幾何もなく学術研究会議議長となられ、薨去に至る迄其位置に居られた。我邦学述の対外関係を円滑にし、又国内の研究の連絡其業績の発表等に就いて此の機関が如何に役立ちしかは、多言を要せざるところである。大正年間の世界大戦中、一面には我邦生産品の巨大なる輸出により大に益した点もあるが、又必要なる学術的物資の欠乏により大に悩まされたのである。高峰譲吉博士は夙に<ツト>大研究所の設立を唱え、又実業家の元老渋沢栄一子爵、学界の長老菊池大麓、山川健次郎の両男爵等は、大に理化学研究所の緊要を感じ、其の計画を進めるにいたった。此仕事に就いても櫻井博士は其の中心となって尽力せられた。大正六年財団法人理化学研究所が成立し、資金として金百万円を恩賜せられた。櫻井博士は創立の時より副所長となり、大正十年大河内博士が所長に任ぜられし時より単に顧問となられた。此理化学研究所は創立当時より我邦一流の研究家を集める事に成功し、今日に於いては其の業績に於いて国内随一と称するに至ったのである。 櫻井先生は財部大将と共に更に一般的なる学術の奨励機関に就き計画せられ、昭和六年の初め帝国学士院に於いて各種学術団体の協議が開かれ、次で帝国議会両院に於いて学術研究促進に関する決議が行われた。翌昭和七年の末に至り財団法人日本学術振興会が成立し、時の首相斉藤子爵が会長となり、櫻井博士が理事長となられた。此の会は人文科学自然科学の全部に亙りて研究の援助奨励を行うものであって、規模の大なる事に於いて此種機関中第一のものである。櫻井先生は昭和十四年一月二十日の此総会に於いて、四百の参会者を前にし、八十二才の高齢とも思われぬ力強き演説を行われ、大に学術の振興の具体的方面につき述べられた。翌日より風に罹られ、数日の後、病勢急変し、其の二十八日に薨去せられたのであった。実に先生の如きは文字通り死して後已<ヤ>むの慨を以って学界の為に尽瘁せられたのである。 櫻井先生は又国際的の学術関係を親密にするにつき大に貢献せられた。前の述べた国際学術研究会議 International Research Council 後改名して万国学術協会会議 International Council of Scientific Union. となったのに参加せられたのも其の一つであるが、汎太平洋会議に就いても亦大に尽力せられた。大正九年布哇<ハワイ>発会に次ぎ、大正十二年豪州シドニーに於いて第二回が開かれた。先生は我邦代表の出席として参加せられた。先生の誠実なる人格と品位ある雄弁とは至るところ尊敬の的となり、大に対豪関係を円滑にするに力あったと聞く。当時第三回会議を東京に招致する事となり、大正十五年例の如く開会せられ大成功を告げた。此の間先生は当然国際委員の長となり、綱領規則の編成を行い、殆ど変更を受けずして通過議決せられた。此会議に於いて初めて太平洋学術協会 Pacific Science Association なるものが成立し、正式に基礎づけられたのである。 櫻井先生は本邦代表として海外に行かれし事十回に及び、又多くの海外名誉称号を持って居られた。留学後の最初の海外旅行は明治三十四年であって、其の際グラスゴー大学の創立四百五十年祝賀会に臨まれ、名誉法律学博士(LL.D.)の称号を受けられた。英国の化学会に於いては留学当時会員に推選せられ、昭和六年其の名誉会員となられた。最後に受けられた名誉称号はユニヴァーシティカレッジ University College の称号を受けられ、又其れが外国人としては最初のものである事は頗る満足思われたのである。此の時晩餐会に於いてドンナン教授の祝辞に対する謝辞に対してウイリアムソン博士に関する事蹟の回顧を述べ効果的な演説をせられた事は既に記した通りである。 昭和十二年の渡英は万国学術協会会議の総会に出席せらるるを主なる目的としたので、此の会議は副会長たる伊国のマルコニ Marconi侯の没後に櫻井先生が之に代わって副会長に挙げられたのである。此の時先生は齢八十歳に達せられ、近親の人々も長途の旅行につき心配したのであったが、先生は頗る明朗なる態度を以って単身出発せられ、恙<ツツガ>無く帰朝せられた。 大正九年櫻井先生は貴族院議員に勅撰せられ、大正十五年には枢密顧問官に親任せられた。 昭和四年勲一等旭日大授章を授けられ、又勲功により特に男爵に列せられた。先生は尚、公私共多数の仕事を持たれ、公に 於いては議定官等があり、学術団体としては服部報公会、三井報恩会、啓明会等がある。服部報公会は創立当時より理事長として熱心に其の発展に尽くされた。国内関係のものは之を列挙し、能はぬが、外国関係のものは自記せられたものに依り次に之を挙げる。 Professor Baron Joji Sakurai, D. Sc., LL. D. Honorary Fellow of University College, London; Honorary member of the Chemical Society of France, the Society of Chemical Industry of Great Britain, the Royal Institution of Great Britain, the American Chemical Society, the America of Science of the U.S.S.R. and the Chemical Society of Poland; Honorary Fellow of the Chemical Society of London; Pacific Science Congress; Vice-President of the International council of Scientific Union and Past Vice-President of the International Chemical Union. 先生はさん子夫人との間に多くの子女を設けられ、晩年は実に児孫膝前を廻るの状態で楽しく過ごされ、直系の児孫は四十人に近かった。最後の渡英の前に東京日日新聞が櫻井邸に於ける子女の集まりの中にある先生の朗なる有様を録音映画として撮ったのがある。櫻井男爵家の家督は二男武雄氏が相続した。先生は夫人との金婚式も済まされたが、夫人は昭和八年、先生に先立って没せられた。 櫻井先生の人格は少壮時代英国に於ける教養の影響を受けて「ゼントルマン」の一語を以って現し得ると考える。約を違えず、名利を貪<ムサボ>らず、純正一意斯学の為に尽くされた。後輩の常に敬服したのは緻密正確なる点であった。自分は先生の門弟として中頃の年輩であって、大学で教えを受けた頃は先生が漸<ヨウヤ>く四十代に入られた許りの頃で、元気旺盛なる時代であった。其の頃の先生は中々厳格であったが、晩年社会的に活動的に活動せらるる頃には、全く円満有徳の人格を完成せられた。自分は大正八年先生の講座を継ぎ、昭和十三年定年退職となった際、後継者、水島博士と共に先生を訪問せしに、諄々<ジュンジュン>として斯学の将来につき談ぜられた懇切なる態度は、今も耳底眼中に残るところである。 櫻井先生の書斎は曙町の邸宅の奥にあり、短い廊下で母屋と続いて居る日本室であって、机を置き坐して仕事せられた。書斎の次の間には多数の棚が仕込んであって、此中に各種の洋服の上衣ズボン等端然として整理して入れてあった。外出に際し其の選択手入れ等は先生自ら手を下され様である。先生の緻密なる性格は書残された種々の書類にも現れて居る。昭和十三年七月一日附で自己の葬儀に関し順序より通知先迄詳細に記されたのがある。又自筆にて記された「櫻井錠二略歴」というのがあり、英文にてうたれた自伝もある。 先生は必ずしも頑健という体質では無かった。六十代には元気の良くない時もあったが、よく摂生に注意し、長寿を保ち学界の為に尽くされた。煙草は好まれたが酒は用いず、晩年には規則正しく短時間の午睡をとられた。料理に精しく自ら行われる宴会には献立等につき種々指図せられた。先生の趣味の中、晩年迄続いたのは宝生流の謡曲であって、堂に入って居られたとの事である。弓道は中年迄やられた。又盆栽を好まれ自ら手を下して寄せ植など作られた時代もある。家庭に於いては子女と共に屡々<シバシバ>麻雀に興ぜられた。先生は徒歩を好まれ、晩年に至るも学士会より丸の内辺まで歩かれた事は稀で無い。七十代に於いても初冬に外套を着ないで徒歩せられる先生の姿をよく見掛けたのである。先生が歩行に際し常に用いられた洋杖は、自分が記念として貰い受け保存して居る。 櫻井錠二先生は実に弱冠二十三歳の頃より研究論文を発表せられ、八十二歳に至る迄六十年間活動を止めずして学界の為に努力せられたのである。功を急がず孜々<シシ>として自然に我邦学界の最高峯に立ち、人皆之を仰ぐの位置に達せられた。今此の稿を記するに当たりて自ら其の不完全なるを思い、先生の緻密なる風格に副わざるものあるを惧<オソ>れ、自ら恥じると共に更に敬慕の念を新たにするのである。 |